12月14日『忠臣蔵』の日
昨日、クッキーを食べようと個包装の袋を開けたら、2回開けたうち2回とも中身が割れていてショックを隠せないさけみぃです(´;ω;`)ウゥゥ
みなさま、こんばんは☆
…出だしから情けないオープニングですみません…(m´・ω・`)m ゴメンナサイ。
でも、ショックじゃありません?!←同意を求めたい〇〇歳。
ダンナさんにも「当たるね~」と称賛ともとれない言葉を頂きました🤬ムッ。
2020年の漢字は「蜜」!!
何はともあれ、本日はこちらの話題からです。
今年で26回目を迎えた1年の世相を表す「今年の漢字」が本日決定致しました!
「密」、ということで新型コロナウイルス感染拡大防止策である「密閉、密集、密接」と言った「3密」から来たものだそうですね…。
わたしは「病」かな?と思っていたのですが、3位にランクインしていたようです。
でも「密」は納得ですね。 本当にこうならないように多くのみなさまもわたし自身も注意しながら今年1年、過ごしていたように思います。
来年はもっと明るい漢字になるといいなぁ…と切に願います☆
煉獄さん300億の男に!!
次は明るい話題を!
ついに、煉獄さんが『300憶の男』になりました~✨✨めでたいっ\(^▽^)/✨✨
正確にいうと『300憶越え』なんですけども…(;^_^A ホントに、いきましたね~(;゚Д゚)ビックリ。
こんなにも早く達成するとは思わなかったのですが、今週末にも「千と千尋の神隠し」を超えて興行収入歴代1位に輝くそうです✨✨
さけみぃ家でも行くんだ~と言いながらなかなか3回目の乗車に行けなかったので、今週末は絶対行こうと思ってます(`・ω・´)キリッ
本当に、2020年は暗い話題も多かったですが、鬼滅の刃に救われたな~と実感するニュースですね☆
日本テレビ開局25周年記念年末時代劇スペシャル『忠臣蔵』
さて本日の話題は 12月14日『忠臣蔵』の日 です。
元禄15年(1702年)12月14日、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)以下、四十七士が本所の吉良上野介邸に討ち入りした日です。
毎年この日は泉岳寺では義士祭が開催されるのですが、新型コロナウイルス感染拡大の配慮から本年は自粛されました。
わたしは高校生の時に義士祭に合わせて12/14に泉岳寺を訪れたのですが、とにかくお線香の煙がものすごくて目が開けられなかったことを今でも覚えています。
午前中に訪れたのですが、お線香を置く場所すらないんです。もう、いっぱいに積み重ねられていて。
300年以上経ってもなお彼らが人々に愛されていることを実感しました。
思い起こせば『忠臣蔵』との出会いは日本テレビ開局25周年記念に制作された年末時代劇スペシャル(1985年12月30日~31日放送)を観たことでした。
当時まだ幼かったわたしですが、母から繰り返し伝え聞いてた「四十七士」(祖母が大ファンだったそうです。)が実際にテレビで放送されたと聞いて、おそらく再放送が初見だったと思います。
観終わった後の感想:大感激&第号泣。( ノД`)シクシク…
この作品の何がスゴイって、前後編合わせて4時間で話のすべてが盛り込まれているところです!
また吉良上野介役を演じられた故:森繁久彌氏の熱演は「素晴らしい!」のただ一言です。
わたしの中では「Best of 吉良上野介」です(`・ω・´)キリッ
大石内蔵助を演じられた里見浩太朗氏も美しい…殺陣シーンは圧巻されます。
『忠臣蔵』を一度もご覧になったことのない方にはオススメしたい一品です。
今回、この記事を書くにあたって「熱がこもり過ぎて、引かれないか?」と心配するくらいわたしの『忠臣蔵』愛は熱いです(`・ω・´)キリッ
毎年12月31日は除夜の鐘を聞くのではなく、【山鹿流陣太鼓】を聞いて年が明けます(大晦日は上記に記載した1985年版の『忠臣蔵』を毎年観ているんですね~☆ しかもそこに0時を合わせる熱の入れぶり…(;’∀’)ハハハ…)。
毎年お付き合い頂いているダンナさんには、感謝のことばしかありません…(今年もよろしくお願いします🙇)
何故こんなに熱くなれるのか―――。
「四十七士」の姿に胸を打たれているからだと思います。
赤穂事件とは
ご存知の方も多いと思いますが、簡単に『忠臣蔵』(赤穂事件)についてお話しますと…
『この事件は元禄14年3月14日 (旧暦)(1701年4月21日)、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城松之大廊下で、高家吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ、「よしなか」とも[5])に斬りかかった事に端を発する。
事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は激怒。浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を改易された。それに対し吉良には咎めはなかった。』(以上Wikipedia【赤穂事件】より引用)
この「改易」とは、現代風に簡単に言うと「会社が倒産して、全社員解雇になった。」と表すことができます。
主君は即日切腹・御家断絶になったのに対し、吉良方には何のお咎めもなし。江戸時代前期までは【喧嘩両成敗】(※)が慣習だったにも関わらず、それを覆すまさに【片手落ち】の判断が下されました。
(※…喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則)
『しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野家家臣達は反発。筆頭家老である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである。』((以上Wikipedia【赤穂事件】より引用))
その後、正式に浅野大学の閉門が決まり、藩州浅野家の再建の道が事実上閉ざされたことをきっかけに吉良邸に討ち入ることを決意。
そして元禄15年12月14日、討ち入りが決行された―――。
忠義の漢たち
内匠頭死去から討ち入りまで2年近い歳月が流れています。その間に元藩士たちの生活も徐々に困窮し、中には当初は討ち入りに参加する覚悟を持った藩士も脱退するなどしています。
自分の命よりも『御家=主君』という時代だったかもしれませんが、苦しい生活の中、ひとつの思い(主君の遺恨を晴らす)を胸に、いつかそれを叶える日まで耐えることは本当につらかったと思うのです。
それを乗り越え、主君の仇を討った彼らはやはり『忠義の士=義士』と呼ぶにふさわしいとわたしは思っています。
本懐を遂げた後、かれらは別々にいくつかの大名家に御預けとなり、幕府の沙汰を待つこととなりました。
諸説、あるかもしれませんがわたしはこれこそが御公儀に対して『あなたの采配は間違っていませんでしたか?』と問いかけているようでならないのです。
彼らは切腹し、その名は後世まで語り継がれることになりました。
彼らの熱は今も変わらず、わたしたちに繋がっていると思っています。
『あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし』 (大石内蔵助辞世の句)
―――後悔する人生を送ることのないよう、日々邁進して行きたいですね。
本日もお付き合いいただきありがとうございました✨
また次回もぜひお越しくださいね♡

名 前 : さけみぃ
年 齢 :人間は所詮、ひとりなんだよ…と悟りを開いたお年頃
好きな物:自他ともに認める甘党です!
ただお餅が苦手なので、おしるこ&ぜんざいはNGです^_^;
最近のコンビニスィーツのイチオシはファミマのスフレプリン!!
あと、自分へのご褒美に年2回、千疋屋総本店のフルーツパフェを頂きます♡
そして冷蔵庫には必ずチョコレートが入ってます…
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